人気ブログランキング | 話題のタグを見る

宗教・信仰心について考える

「アナタハ神ヲシンジマスカ?」

私は無神論者である。

なんていうと大袈裟なのだが、別に否定も肯定もしないが私にとってはどっちでもいい存在であることには変わりない。

唯一信じるものがあるとすれば自分自身であり、自分に降りかかる幸運も不幸もすべて自分自身の招いた結果であり、神様の思し召しだとは思わない。

宗教なんてものも基本は人間が共同生活を営んでいく上で必要なルールを誰にでも判りやすく理解させる為の教えを説いたものだと考えるので、宗教が生まれた根底に頭のいい人間がいたことは理解できるが、本当に神がいたとは思っていない。

それでも人間、みんなそれほど強くない生き物。人(神)からの教えに沿って生きていく方が自分で責任を持って自立していくより楽なのは理解できる。楽しい事があったら、神に感謝し、辛いことがあったら、神に救いを求める。とにかく神にすがっておけば自分は何も考えなくてもいい。

私なんかも会社に入ってそれがよく判る。もともと親は商売人で実家は自営業なのだが、会社で人に使われている方がよっぽど気楽でいい。自分で言うのもなんなのだが要領はいいほうなので、組織の中で付かず離れずの位置をキープしながら適当にやっておくことなんてお手の物。これで適当にお給料もらえるんだから、自分で四苦八苦するより余程楽。才能があるのなら、起業するのもいいんだけど、自分がそんな器じゃないことは自分自身が一番よく知ってるし。

でも、神じゃなくて人間が作った宗教として考えても、なかなかどうして何百年もの間、人々から愛され続けている宗教は流石によく考えられているシステムだなぁと昨日高野山に行って思った。

「地獄の沙汰も金次第」とはよく言ったもんで、何をお願いするにもお金が必要。本当の神様はお金なんて持っていても使えもしないのに、お金は必要。「このお金は誰のお金?」なんてことをいうと罰が当たるかな?(それでも今年前厄の信仰深い妻はしっかりと添え護摩木(一本500円)に願い事を書いて拝んでおりましたが。)代金とか料金なんていうと世俗的でヤラシイ感じがするがお布施なんていうとなんだか有難い。

で、大きな仏像とか見て回って思ったのだが、仏像のあの半開きの鋭い目付きとかホントよく考えられていると思う。なんだか心の奥まで見透かされているようなあの目。造詣的にホントよく考えられている。(なんて見透かされているように見えるのも私の中にやましい考えがあるからなんだろうけどね。)悪いことをしている人間があの大きな仏像の前であの目で睨まれた日にはそりゃ「ごめんなさィ~」ってなるんだろうなぁって。で、その後ろには毘沙門天が怒っているような見開いた目つきで私を睨んで見下ろしているのよ。そりゃも「ひィ~。ゆるしてくださいぃ~。」ってなもんですよ。

こんなこと書くと神をバカにするなとかお叱りの意見がありますでしょうが、決してバカにはしておりませんので、お許しください。本当によく出来ていると思っているんですから。(え?それがバカにしてるんだって?)

でもね、ただただ暗記しないといけない歴史が大の苦手だった私が、今度「真言密教」とか「弘法大師空海」とか歴史の本でも買ってきて読んでみたいなって本気で思っているですから…。

神様は信じておりませんが、困ったときはいつも心の中で死んだおじいちゃんに祈っておりますよ。この前も飛行機がかなり揺れたときに「おじいちゃん、まだ死ねないので守ってください。」って祈っておりました。無事に着いたら「有難うおじいちゃん」ってな感じでね。

大好きなおじいちゃんだったので見たこともない神さまよりは守ってくれそうな気がするし…。

とにかく、そんな神様には何の興味もない私でも感化されるぐらい荘厳な雰囲気作りに成功しているという点においても、現代技術の粋を集めたUSJですら足元にも及ばないということになるでしょう。
by yaling | 2005-02-04 18:56 | 海外での思い出
<< 引き篭もり?そんなもんは贅沢病だ! 高野山に行ってきたよ! >>